涙がそんなにシャッターチャンスか?
芸能人、スポーツ選手、政治家、文化人、ま、要は有名人が記者会見なぞをすると、カメラマンが当然シャッターチャンスを狙っている。そのチャンスというのが、いつのころからか会見している当人が泣いたと思しきときに決まってしまっているようだ。当人はつとめてそんな感情の乱れを見せないようにと努めているが、こらえきれずチラリと涙のかけらを見せようものなら、シャッター音とストロボの嵐である。時には、涙を拭いたのではなく単に目の周辺をさすった、こすったというだけでバシャバシャという感じだ。
いや、ここでは「号泣」という言葉の話をしようと思って前置きが長くなってしまった。そう、単に涙を流した、こぼしたというだけで、声は出していないのに「号泣」なぞと言い立てる今のボキャブラリーの誤用は何だ。知っててやってるのだから誤用ではないのか。(誤解でなく意識的に違う解釈をするのを曲解というなら、これを曲用とでも言いたいが、でも曲用ってのは全然違う意味があるからな……)
「肝いり」ってことばも誤解されてないか? 今、この言葉がよく使われるのは、たとえば社長肝いりの、とかいって、社長が思い入れのあることがらに自ら力をこめてやっている、みたいな話になってしまっている。
そうだ、「輩出」ってのもおかしいぞ。たとえばこの学校は偉大な政治家を輩出している、とかいうと、これまで有名政治家をこの学校の先輩として今まで生んできたんだよ、てな使い方だ。そうじゃない。輩出っていうのは、単に数多く出してきたってことだ。
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